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山への想い

月山、湯殿山へ
月山から湯殿山へ

人との出会いは不思議なもの。
偶然な出会いのように思えてもそこには誰にも妨げられない繋がりがあるように思える。
自分の生き方を何かに求めようとしたときに偶然と思える出会いが生まれるような気がする。
山で同じ風景を眺めて、唯それだけで繋がり合える事もある。
 どれだけ苦しい思いをすれば人は山への憧れに諦めを感じるのであろうか。と、そんな風に考えながら大きくため息をついて、何かにしがみつくように歩いて行くことがある。
そんな辛い思いを残しても再び山へ出かけようとする。
 そんな時、私はこれはきっと自分の生き方で遊びではないと感じるのである。      

幸ノ沢
中ア 幸ノ沢

龍ヶ岳からの富士山
龍ヶ岳からの富士山


次の山 
山登りの質、それは決して技術や経験を問うものではない。
山ならどこでもいい、ただ山の自然に触れられればそれでいい。そんな山登りにも質は有る。
だがそれが人によって決められた場所で、決められた行動範囲の中で与えられたものかどうかは大きな問題だ。
そもそも山は未知との遭遇、次には何があるのだろう、そんな好奇心に満ちたものであって欲しい。
何度も行く山で、新しい発見や思いもかけない経験をするのは、そんな未知への憧れを持っているからだ。
私の家には10年近く前に引っ越して来たその当時から、づっと同じ山の写真が飾ってある。
私が30代の時、滝谷へ赴いた際に撮った北穂高から眺めた槍ヶ岳の写真である。
尖がった頂に立ってみたい、そんな憧れから始まった私の山登りの原点を思わせる写真だ。
だがあこがれ続けた頂に立つと、また次の山が見えてくる。それこそが山登りの質であると思う。 

雨飾山P2尾根
雨飾山P2尾根を滑る

越後日向山の紅葉
越後日向山の紅葉


山登りの本質 
山の朝、漫然として時間を浪費して、結局山では時間切れで危うい思いをする。
準備不足で果敢に山に挑んで危うい思いをする。たとえばそんな怠慢を乗り越えて山行を終えると、何か充実した気分になる。山での大きな錯覚がそこにはある。
万全の準備と現地での慎重な行動で、山では何事もなく余裕を持って山行を終えると、何か物足りなさを感じたりする。
そんな時は山でのあり方を考えてみるべきである。
山に縛り付けられて、技術や経験を問われ、時には自我をも無視されるような場面で、自分が問われているものの質や重み。山を歩くだけで豊かさを感じる自然、だが興奮や感動の少ない場面で問われる自分の質と重さ。
山での自分のあり方、その答えを探し当てて感じる時、山での錯覚はなくなると思う。

四十八滝沢大滝
四十八滝沢大滝



ダサイ山登り 
服装に無頓着な人が何を着ようが、ダサイとは言わないそうである。
センスがないのに服装にこだわる人をダサイと言うそうである。ところで、ダサイ山登りってどんなもの? 
楽しいと思っていないのに、こだわりのコースに執着する人、人と違った事を求めて差別化を図る人。
ひょっとしてそれは自分の事かもしれないと思うことがある。
クラブがどうあるべきか、などと考えてしまうと自分の好きな山だけに終始していては質や対外的な評価を得られない、と思ってしまう。評価五つ星と言われる誰でも知っている沢や山やコースは確かに素晴らしい所である。
そんなところを幾つ登っても凄いとは言われない。山登りでの評価はそういうことなのである。
山登りの原点に帰ればそんな人の評価はいらぬお節介。だが、である。まだ知られていない隠れた五つ星は沢山あるはず、その過程で水の流れもない、涸れたゴーロを延々と歩くこともある。誰のために、それを考えてしまったら何も残らない。
メジャーな山とコースを外れて、自分にとっての未知の領域を探して、これからもダサイ山登りを続けて行きたい。

奥久慈の紅葉
奥久慈の紅葉


見る自分 
プロフィ-ルの質問に「あなたの尊敬する人」という項目がある、私が答えるなら「見る自分と、見られる自分が限りなく一致している人」である。多分にマルティン・ブーバーの「我と汝」に負うところが多いのだが、俗に言えば裏表のない人、と言うことになる。教養や財力や能力・・私にとって、そんなものは人としての魅力の何の評価にもならない。人に対する優しさや思いやりにしても、二重である我では偽りでしかない。
私が山登りに魅力を感じた一番の理由も、「見られる自分」を演じられなくなるような、体力や技術や気力の限界の中で、どんなに隠しても隠しきれない、「見る自分」がふ垣間見られる事にある。
時には苦楽を共にする雄大かつ過酷な自然の中で、そんな付き合いが出来るからでもある。人は裏で何を考えているのか計り知れない、そんな人の裏表も含めて、山のように大きな懐で、よしよしと受け入れられる人でありたいと思っています。


南八甲田山櫛が峰を望む
南八甲田山櫛が峰を望む

山登り 
360度の大展望はいらない、一面に広がるお花畑も、岩場を越えてゆくスリル溢れた緊張と達成感も、なくてはならないものではない。
そんな眺める風景のすべてと、越えてゆく山道の変化は必要なものではない。ゆっくりと腰をかける場所と、そのときのあるがままの姿で、寒くもなく暑くもなく、頬を撫でるほどの風がほどよく乾き、安らぎの中に詰め込まれた幸福感が全身を包むような、そんな稜線でのひとときがあれば、他には何もいらない。
谷にあれば、見上げる千差万別の滝の風景も、岩魚踊る渓も、圧倒的なゴルジュの様相も、辿る渓相の善し悪しは問題ではない。狭くとも、一夜の安らぎを約束してくれる程よい空間があれば、何もいらない。森のにおいが夕餉のひとときを優しく包み、傍らの清流が人の呼吸に合わせるように爽やかな音を立てる。そんなひとときに身を委ねるために、私は山登りを続けてゆきたい。  

中央アルプス新雪の稜線
中央アルプス 新雪の稜線で


ありのままで
 Let it beとLet it goの違いが分からない。
どちらも「ありのままで」あるいは「あるがままに」と理解しているのだが。私にとってLet it beは知っての通りビートルズの曲で親しみ人生の指針にもなった曲である。
今でもこの曲が流れると聞き入ってしまう。最初はメロディーに打たれたが、大の苦手の英語の詞の内容を知るにつれその想いは深いものになった。
アナと雪の女王で唄われるLet it go、映画を見てもいないのに語るのは苦しいが、いつも山の中では「ありのままで」有りたいという想いと重なる。下界ではどうにでも取り繕う事が出来る事も、山の中ではそうはいかない。
重荷を背負って喘ぐ苦しい場面や吹雪に晒された寒さの中、延々と続く根曲り竹やハイマツ、石楠花の藪漕ぎの中では、自分を取り繕う余裕もなく、どうしてもありのままの自分が出てしまう。
風景や様々な自然との出会いに中では、ありのままの反応が表に出てしまう。その反応で、その人となりが手に取るように分かる。「ありのままの」付き合いが出来るのも山登りの魅力である。  

東大巓へ
東大巓へ果てしない雪原をゆく

タチツボスミレ 
まだ春スキーの季節。雪が溶けて久しい斜面では地面が乾き、陽に促されて真っ先にスミレが咲く、スミレは種類も多く変種もある。・・スミレと言い当てるのは専門家でないと難しい。
そんなスミレを知ることは、何の関係も無いように思えるかもしれないが、山を総合的に見ることが出来るという点で冬山にさえ通じるものがある。季節の中で何を見ればよいのか、見ようとするものが見えない、山の極狭い卑小なものしか見えない。自分はもっと豊かなはずなのに。天候、雪質、全てに恵まれた山スキーの場面にしても、まず見えるものが滑りの良し悪しではなく、山がどうであったかでありたい。振り返った時、山で広げた弁当の中身でなく、山の有様を語りたい。
 スミレを知りたい、そうして山の世界が広がってゆく。どんなに経験年数を重ねても、求めれば常に初心者で有り得ることの素晴らしさが山の魅力だ。  

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百村山にて この時期はカタクリも咲き誇る

斑尾高原沼ノ原湿原
斑尾高原沼ノ原湿原


子どもの目 
孫に接する機会が増えたこの頃、大人にはない感性に学ぶことが多い。
子供は自由である、何事においても求めるだけで責任がない。
自分との不和がなく、見る自分と見られる自分が一致している、私はこれが子どもの定義であると思っている。
死の概念がないから物事にマイナス志向がない。
そんな子どもが自然の中で眺める景色は我々とは全く違う観念である。雪混じりの風はただ冷たくて寒く、水の流れも季節の移り変わりも、時の流れさえも見事に止まっている。未来を考えることもなく、過去を振り返ることもない。
そんな子どもに還れたら、山はきっと好奇心に満ちたおとぎの国に見えるだろう。だが、誰でもそんな子どもの時代があったことを、忘れてはいけない。
山をもう一度好奇心あるネバーランドにするために、私は子どもに還る。 雅


立山雷鳥平の春
雷鳥平らの春

小出俣山から谷川岳を望む
小出俣山から谷川岳を望む


ある夢のこと 
「あ、危ない!!」大声に目が覚めた。稜線に天幕を張った冬合宿での夜のこと。
きっと彼は不安をいっぱい抱えて冬合宿に臨んだに違いない。ただ人任せではない準備と、人に頼るだけでない現地での行動を思い、入山までにどれだけ不安な日々を過ごしたのだろう。明日は山頂アタックという夜に彼はどんな夢を見たのだろうか。思えば私もよく夢を見た、滑落したり、どうしても手が動かないもどかしさでふと目が覚めたりした。
翌日、彼は危なげなく山頂に立ち、しかりした足取りで難所を通過した。下山の日、まだ明るさのない天幕の外に出ると、しんしんと雪が降っていた。稜線も空もなく、ただヘッドランプに照らされて目の前の雪だけがあった。失われて行く感覚に、手を叩きながら黙々と撤収をする。正月の盛りを終えた天幕地に人々のざわめきを知らない雪が大勢の痕跡を埋め尽くしていた。彼も私もいっぱいの不安を抱えながら日々山と対峙し、だが晴れ晴れとした日々、悔いのない日々を送っていたに違いない。山の魅力は外にあるのではない、自分の内で育つものだろう。  

二口山塊
二口山塊

四阿山山頂からアルプス全景
北アルプス全景が広がる四阿山山頂
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プロフィール

bunatoiwana69

Author:bunatoiwana69
山のソナタ集へようこそ!
19の時から山登りを始めて現在75歳。
東京の京橋に生まれ、都会に育ちながらも山の自然に憧れる。
脇目も振らず、馬鹿のひとつ覚えで山登り一筋。
時々の風景と想いを切り取りブログにしました。

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