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山岳信仰

山岳信仰 山の黄昏に

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遠く妙義山塊を望む西上州観音岩

 里から見上げる山の頂に
人は何かを考えたのだ。
そしてそこに自分の一番大切な何かを置かずにはいられなかった。
陽は山に登り山に沈み、風は山から吹いて山に吹いてゆく。
 ふと淋しかった山や、
ふと考えさせられた旅のつれづれに石仏なんかを見ると信仰心の全くないわたしでも訳もなく手を合わせたくなる。
宗教などと大上段に構えなくても、
それが自然を敬う謙虚な気持ちの表れなら、
山岳信仰は人の最も自然で素直な形ではないだろうか。

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房総高宕観音堂。 岩壁に寄り添うお堂の佇まいが胸を打つ

 無心で歩いて行く、
歩けば歩く程に人はただの人になって行く。
山登りは歩くもの、歩く為に食べ、登る為に歩く。
その無力さに魅力を感じる時、人は祈りにも似た安らぎを得る。
山では技術や経験を超えた所で運命を思わせる場面が多い。
数秒の時間差や数メートルの位置の違いで生死を分けたりする。
もしもあそこで、などという仮定は結構あるものだ。
 
 隠れる所とてない三千メートルの稜線で雷に遭ったことがある。
周囲が真っ白になる閃光と同時に轟音がなり
電流のような衝撃が体を走る。
毛が逆立ち持つ手が痺れる。
激しい雨に打たれながら斜面を這いずりハイ松の中に身を潜めただ祈る。
祈るのは神を信じているからではない。
その場で出来得る全てを尽くして無心になれる。
 それが祈ることだ。

石仏
 生まれたときからいつかは死ぬことを約束された命の中で
もしも運命という生死を分ける別れ道があるなら
それは潔く静かに受け入れようと思う。 

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奥秩父瑞牆山の山中に潜むカンマンボロンの岩壁
人はこの岩壁に刻まれた浸食を梵字と結びつけた、
信仰がなければ何も生まれない事実だ。

山岳巡礼 
日々何度も仏様に手を合わせる生活をしていた叔母。
私が縁あって喪主を務めた葬儀、納骨が終わった。
還暦の際に祝いにと毎年参詣を欠かさなかった身延山久遠寺で買い求めた数珠を貰った。
その数珠と「毎日仏様に手を合わせなさい、それは数珠を見れば分かるからね」という言葉が叔母の形見になった。
愛読していた「岳人」の「百霊峰巡礼」の執筆者であった立松和平氏が同じ頃に亡くなった。
共に山登りではなく、人の深い精神性を求めて山に向かった人である。
日々仏様に手を合わせる心境には未だになれない私ではあるが、日本では山岳宗教という山の側面が実は山登りの原点であることを知っている。
もう、この山の風景を再び見ることはないだろ、そしてこの山道を再び歩くことはないだろう、そんな気持ちで一歩一歩、歩かれたら、どんな山登りもかなわない。
「山があって人がいる」「人がいて山がある」その違いが分かるようになるにはもう少し歳を重ねなければならない、と思っている。

山急山山岳信仰
山急山にて
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プロフィール

bunatoiwana69

Author:bunatoiwana69
山のソナタ集へようこそ!
19の時から山登りを始めて現在75歳。
東京の京橋に生まれ、都会に育ちながらも山の自然に憧れる。
脇目も振らず、馬鹿のひとつ覚えで山登り一筋。
時々の風景と想いを切り取りブログにしました。

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